国家運営は民主的であるほど良いか?知性主義者の見解、および阿呆共鳴現象を叩き潰す方法(前編)

私は知性主義者である。
高度な知的訓練を積んだ専門家や、そうした人間で構成される公的機関をそれなりに信頼している。専門家集団が国家運営を誤ることは度々あるが、ド素人の思いつきによる統治よりマシである。
医者が手術を失敗し得るからといって、ド素人に手術を任せる人間はいない。

然るに米国の大統領選(トランプ勝利)や兵庫県知事選(斎藤元彦勝利)の結果や経緯を見るにつけ、世界的趨勢は逆方向に傾いているようである。
原因はSNSの浸透によりド素人がド素人にウケる思いつきや虚偽を配信し、ド素人同士で共鳴しあう現象が発生しているためと感じられる。
ド素人は端的にいってその専門分野に関しては阿呆であるから、SNSは阿呆同士が共鳴する土壌となってしまっている。

この阿呆共鳴現象の根底には、情報を無料でばら撒き、広告配信で費用回収するweb特有の収益モデルがある。
配信される情報や受領者の知的水準に関わらず1PV=XX円という構図にしてしまうと、阿呆向け情報のほうがコストがかからず(調査をせず雑な思いつきや虚偽を配信すれば良い)、顧客となる阿呆は知的な人間よりも多くいるわけであるから、阿呆向けの阿呆な情報を大量生成したほうが儲かってしまう。
これに新自由主義的な風潮、すなわち利潤追求を無条件で称賛し、市場経済の抑制を忌避する社会的傾向が加わると、社会は阿呆向けの阿呆な情報で埋め尽くされることになる。

以上のように、新自由主義+無料広告モデル+SNSによる阿呆共鳴現象が、「ポピュリズム」として度々言及されるようになった政治的傾向を生む土壌を形成し、知性主義者である私にとって唾棄すべき状況を生み出しているわけだが、民主主義の進展という意味では、実は進歩と捉えることができる。

民主主義とは、一部の特権階級ではなく、民衆に主権がある政治体制であり、主権が平等に付与されているほど民主的であるといえる。
従って現状は、一部知的エリートにメディアを独占されていたド素人=民衆が、1PV=XX円という極めて平等な民主的枠組みによって主権を取り戻す過程と見ることができる。

然るに、同様の過程は、通信技術革新によりマスメディアが発達し初めた20世紀初頭にも発生し、何を招いたかといえば、イタリアのムッソリーニ、ドイツのヒトラー、スペインのフランコ。つまりはファシズムである。
20世紀初頭のスペインを生きたオルテガは1929年に著書「大衆の反逆」の中で、政治的アジェンダ設定の主導権を知的エリートではなく大衆が握ることの危険性を説いたが、10年を待たず世界大戦が勃発した。私はオルテガと全く同じ懸念を抱いている。

つまり、本記事題名に対する答えであるが、民主主義には丁度よい塩梅というものがあり、国家運営は民主的であるほど良い、ということはない。民主政を過信し、民衆に権力を与えすぎると、いずれファシズムを選択し自滅する。
これは2400年前には既に指摘されていた現象だが(プラトンの「国家」)、21世紀もどうやら20世紀の韻を踏むらしく、2024年の状況は1924年に似ていると言わざるを得ない。
では、世界が20世紀のようなファシズムの台頭や破滅的な殺し合いに陥るのを防ぐには、どうすれば良いか?

政治的アジェンダ設定を知的エリートの手に取り戻し、大衆は知的エリートへの牽制という役割に戻ってもらう必要がある。
これには何が必要か?

新自由主義+無料広告モデル+SNSによる、阿呆共鳴現象を叩き潰さなければならない。その具体的方法を、次記事以降で述べる。

  • この記事を書いた人

Y. Middleton

3児の父/海外在住/会社経営/個人投資家/米国公認会計士(USCPA)/公認システム監査人(CISA)/公認内部監査人(CIA)